「セコンドハンド」に寄せて
石毛健太
全体的に作品の量感が小さく一見するとさっぱりした印象の展覧会だが、突飛な什器や設営風景のアーカイブ映像、展覧会ポスター等々が作品と共に混在している上に、大雑把な配置とタイトル・作者を記したハンドアウト以外にキャプションや作品に対するテキストもほとんどなく、導線も非常に緩やかに形成されているため、(「設計された展示空間を歩き、タイトルを一度確認し作品を鑑賞、キャプションを読み込みもう一度作品をじっくり鑑賞する」といったいわゆる美術展覧会のオーセンティックな鑑賞法的な一連のワークフローを絶対に許さない)作品/その他の物体という線引きは鑑賞者に委ねられている、あらゆる物が高度に意味付けされ文脈化された現代におけるアートの有り様を探る展覧会である。
作家の作品を一方通行に鑑賞者が受容するのではなく、鑑賞者にその尺度を明け渡すことで鑑賞体験自体に揺さぶりをかけようとする試みが作品に限らず、この展覧会の随所に散在している。
実際に、外国人旅行客からなる鑑賞者たちが、会場入り口付近に置いてあった展覧会のステッカーシールや売約済みを示す赤丸シールを自由に貼っていい物と解釈し、小池や鷲尾の作品周辺に貼り付けたり、衛藤のコインボックスを募金箱と解釈しドネーションしたりといった、多くのミスリードを起こした。
彼らの残したそれらミスリードの痕跡によって会場の風景が変容したことはこの展覧会を表す象徴的な事件と言えよう。
「自由に受け取り自由に発想する」という美術教育の現場で使い古されたようなフレーズが、鋭利な凶器として鑑賞者に突き立てられている、自由というものの過酷さが会場全体に充満しているような印象を受けた。
このヒリヒリとした空気は出展している作家たちも絶えず作品制作を通して世界を見つめたり触れ会おうとする際に肌身に感じているスリルなのかもしれない。
wimp「カモのデコイ」
作家のスタジオにあるものなどで構成された卓上の静物画。ところどころPhotoshopのようないわゆるデジタル画像加工ソフトでのレタッチの痕跡も絵画の構成要素として描かれている。
中央に配された髑髏(正確には髑髏の面)はヴァニタス(寓意画)に多用されるモチーフであり、その意味は「死」である。そのほか、蜜蜂(正確には蜜蜂のおもちゃ)は「聖人の言葉」、狐(正確には狐の置物)は「狡猾」などを意味する。
ヴァニタスと呼ばれる寓意画は中世の絵画の中で多用された、絵画中のメタファーたちを結びつけることで隠されたメッセージを鑑賞者に届ける一つの形式であり、ペストの流行などで根付いた「メメント・モリ」的なる死生観に基づいて多く制作された歴史があるが、作家の描くヴァニタスに死や腐敗を感じさせるニュアンスが果たしてどこまで存在するのだろうか。
重厚な絵画史を引き受けつつ、剥がされたキャンバス、デジタルな切り取り加工の痕跡、あくまで代用品で構成されたアレゴリー等々の仕掛けによって、この寓意画の意味は撹乱され、各々の要素が衝突する地点で意味やメッセージを結ばれる、鑑賞者に対してそのポイントを巧妙に委ねているようにも見える。
散りばめられたモチーフたちや様々な加工によって寓意は無数に結節し、絵画空間内を行きつ戻り繰り返す事でこの卓上画は本来のアレゴリーとしての機能を失効して行きながら、より多様な解釈を可能にする。
衛藤 隆世 「Coin Forever」
静止した画像のように見えるCGのコカ・コーラクリアの映像が流れる大型ディスプレイ(このCGアニメーションは「販促用のプロモーションビデオ」のつもりで制作したものらしい)、透明アクリル製のコインボックス、コーラの入った冷蔵庫、ゴミ箱で構成されたインスタレーション。
作品の全体のプロセスは、作家が購入、展示したものを鑑賞者が同じ価格で購入、消費し、その後大元の購入者(作家)の手元には購入した原価がそのまま帰ってくる、というものだ。
コカ・コーラクリアは炭酸市場の競争力強化、オフィスでの飲料増加、健康志向を目指し開発されたが、企業側が意識した以上にファッションアイテムとして受容された「セコンド・ハンド」的な商品(作家談)であり、そういった経緯から今作のモチーフに選ばれた。鑑賞者はコーラを単なる「飲料」、または上記のような「ファッションアイテム」、もしくは展覧会で購入した「作品」として購入することが可能であり、さらに飲み終えた後、それを会場のゴミ箱に捨てる際にもその行為は飲料の「ゴミの廃棄」としても「作品の一部を還元する」ことにもなりうる多義性を委ねられ続け、様々な鑑賞者の価値判断の結果が透明のコインボックスとゴミ箱に集積される。
タイトルの「Coin Forever」を直訳すれば「永遠に硬貨」だ。
透明なコーラにまつわる多様な価値判断も、作家が制作したプロモーションビデオも、什器の設計・制作にあてた労働も全て透明化(件のコラーの如く)され最初のコーラ購入のために作家が手放した貨幣価値のまま一切の変動なく、再び作家に還元された結果が透明のコインボックスに集積されていく。
広告とゴミで構成された消費社会のカリカチュアの中でコーラを購入することは、大きな経済循環の中のある一点に自覚的に取り込まれることであり、ホワイトキューブという無菌室の中に持ち込まれた自身の身体や生活を再認識することでもあるのだ。
小池奈緒/Dog Helth Club
「Dog Health Club Report Vol.2」
犬の糞害などに対処するために放置された犬の糞などからDNAを採取、あらかじめ登録された犬のDNAサンプルと照合、どの犬によるものなのか特定するサービスを参照し、本来生体情報を持たないインターネット上のフリー素材の犬の糞を糞に見える何か(かりんとうや小粒のフルーツなど)で見立て、その犬の健康状態を示すレジュメと犬の写真と糞をパッケージングした本を展示している。
おそらくこの世で最も誰からも必要とされていない「犬の糞」というモチーフが、ファッション誌など雑誌付録のごとく丁寧にパッケージングされているグロテスクな様相を示すこの作品は、「フリー素材の犬」という匿名性の高い不確かな存在に実生活の延長に存在する生き物としての側面を持たす。
そういえば作者の片割れである小池は大学在籍時にアイドル文化を巡った作品群を多数制作し、その際に、フィクションとリアルの世界の狭間に生きるアイドルのの独特な在り様を「亡霊」というキーワードで形容していた。
「アイドルは排泄をしない」というのはよく耳にする、フィクショナルな部分を肯定するあまり生体としての側面を否定される、アイドルの消費の形式ではあるが、今作では一転、まさしくその排泄物を入り口にフィクショナルな存在を描いていくことで、データ化が進む現代の存在論への言及が伺える。
ネット上を浮遊する犬の亡霊に受肉させた断片を本というメディア(しかも装丁はいたって静謐)に閉じ込める、密教的な不気味さをこの作品は湛えている。
会場にあった作品たちは作家を通じて購入可能であり、実際に数点交渉完了を示す赤シールが貼られていた。
無論これは芸術作品で、作家による一つの試論に過ぎないのだが、もはや故も知らない犬の糞に似せた何かにまで価値を見出してしまう時代なのか。
西尾 佳那
「How to make fake」
2000年に実際にあった遺跡捏造事件を題材にした作品。事件の顛末を再現する様な「土器を再発掘するために土に埋め直す作業を作家本人が夜に行っている映像、床置きされた箱詰めされた土砂とそこへ半分埋もれ、丁度今出土されたかのような3Dプリントされた土器、騒動のあった地域で遺跡発掘にあやかろうと作られたが捏造が発覚した現在もなお売られ続けているお土産用の「原人ラスク」、不規則な幅の茶のボーダーでできたポスターが床に垂れている「地層グラフィック」の複数点のオブジェクトからなるインスタレーション。唯一作品に対するテキストの導入があり、そこでは繰り返し「アイデンティティ」という言葉が使われている。
材料押出堆積法で造形されたままの真白い土器が土の中に埋められることで、複製可能なデータとフィジカルの境界は曖昧になり、2000年当時からさらにオリジナルという概念が希薄になった現在を鑑みることができ、会場に設置された実物は虚構がそのまま出土されたような生々しさを帯びている。エビデンスに基づいた科学分析や研究分野の中で発生した事件であったため、ポスト・トゥルース的であると一概に形容することすらできない。
また、作者の言う「アイデンティ」は、現在地域アートと呼ばれる芸術領域で頻繁に持ち寄られる「サイトスペシフィティ」とも、オリジナルという幻想にかつて存在した「アウラ」とも、翻訳可能であろう。捏造が発覚したのちも販売され続ける原人ラスクには我々が今日も生きる社会の持つ複雑さがそのまま閉じ込められているように見える。
2018年にこの事件そのものをまさしく発掘し、テーマにとして選んだのは作家の慧眼だろう。
作者の西尾は展示期間中海外におり、代理として作者の友人が搬入・設営を行なったらしく、物理的にセコンドハンドな成り立ちをしている作品である(加えてタイトルの押韻が楽しい)。
鷲尾 怜
「3 Sculptures, 3 Comedians」
美術における腕にまつわる大命題としてミロのヴィーナスは間違いなく挙げられると思うが、この彫像は腕以外が欠損している。
腕をモチーフにした立体作品が3点床に敷かれたマットの上に並び、その奥の壁にそれぞれの立体について語る人物が一人ずつ登場する。
作家が(おそらく京都市立芸大の構内の)どこからか拾ってきた手の彫像の一部をそれぞれ、今日美術と呼ばれる領域に属さない人々に渡し、その彫像の製作者として作品を語ってもらう様子を映像に収め、実際にその彫像とともに鑑賞する、という物だ。
ここまでは、捨て置かれた創作物を拾い上げその領域の外にいる人々に明け渡すことで美術の持つ特権性を失効させ、「美術とは一体なんであるか」という恒久的な問いを逆照射する仕組みである。
本来この意図に沿って忠実に制作をするならば、彫像の一部たちは彫刻作品として台座を用意されるべきであり(なんなら結界を張ってもいい)、実はなんでもない造作物に対し積極的に権威付けを行っていくような、ある種露悪的な表現になっていくだろう。
しかし彫像は展示台に据え置かれることなく、地べたに敷かれたマットの上に並べられるに留まり、タイトルの「3 Comedians」によって彫像について語る人物たちの正体も白日のもとにさらされるなど、作品内の様々な要素によってあらかじめ設定されていた逆説的な構造も放り出され、鑑賞者はさらに宙づりにされる。
だがその床置きの状態こそ、彫像の一部たちを作家が最初に見つけた状態に近しいものであり、鑑賞者は作家や「3 Comedians」同様に、彼らが初めてこの彫像のパーツと対峙した際の新鮮な眼差しで見つめ、鑑賞者の中での「3 Sculptures」を形作ることが可能なのではないだろうか。
ミロのヴィーナスが腕が欠損しているからこそ美しくあること同様に、この作品も腕が生えていた本来の彫像の姿やそこに至る過程に想像力を駆り立てられることで、いかようにも美しくあることができるのではないだろうか。